えらそうな題ですけど、、
書きたいことは、"実は素人だからこそ、いい器を使うと、
日々の食事のプレゼン力がアップするのよ~"、
てな意味合いを以下、表現できれば。
てな意味合いを以下、表現できれば。
(*本日は、オタク記事~~~♪(爆))
若いころからそれだけのためにあちこち旅をするほど「無類の器好き」ですが、
イギリスでも、はるかへき地にある
高速道路がないこともあり、めっちゃ遠い!(ホントに遠い・笑))
まずは、日々の食事を盛ったとこ、見てネ。
↑焼きベーコンと炒めゴーヤのサラダ
↑蕎麦サラダ、サクラエビ、豚しゃぶ
↑シソたっぷり、また豚しゃぶサラダ(笑)
これ、一見、日本の陶器のように見えませんか?
今からほんの(?)100年ぐらい前のおはなしです。
はい、1分で解る、リーチ講座です(笑)。
(長くなるのでものすごーーーーくはしょって、超丸めて一文で書いてみた。爆)
(長くなるのでものすごーーーーくはしょって、超丸めて一文で書いてみた。爆)
両親の都合で香港で生まれ、日本で育ったイギリス人、
バーナード・リーチは9歳でイギリスに戻り、
成年後、ロンドンの留学生だったあの
千恵子抄の高村光太郎のつてで再び東京に来て、
その後"民藝の父"柳宗悦(柳宗理の父ですよ~)に出逢い、
志賀直哉や武者小路実篤とも知り合い、
祖国イギリスのスリップ・ウエアを「日本で(本で)知り」、
京の陶芸家・6代尾形乾山(初代のお兄ちゃんは尾形光琳!)にも師事、7代乾山を皆伝、
柳の家(当時は千葉の我孫子)の敷地内で窯を開き、
「釉薬研究をしていた、のちの人間国宝、濱田庄司」と運命の出合いをし、
1920年、再び2人で一緒にイギリス、コーンウォールのセント・アイビスに渡り、
リーチ・ポタリーを創設し、
「日本の製陶技術を本格的に伝えた松林靏之助」の協力を得て
登り窯での作陶に成功していく・・・・・。
バーナード・リーチは9歳でイギリスに戻り、
成年後、ロンドンの留学生だったあの
千恵子抄の高村光太郎のつてで再び東京に来て、
その後"民藝の父"柳宗悦(柳宗理の父ですよ~)に出逢い、
志賀直哉や武者小路実篤とも知り合い、
祖国イギリスのスリップ・ウエアを「日本で(本で)知り」、
京の陶芸家・6代尾形乾山(初代のお兄ちゃんは尾形光琳!)にも師事、7代乾山を皆伝、
柳の家(当時は千葉の我孫子)の敷地内で窯を開き、
「釉薬研究をしていた、のちの人間国宝、濱田庄司」と運命の出合いをし、
1920年、再び2人で一緒にイギリス、コーンウォールのセント・アイビスに渡り、
リーチ・ポタリーを創設し、
「日本の製陶技術を本格的に伝えた松林靏之助」の協力を得て
登り窯での作陶に成功していく・・・・・。
(これが、現在のリーチ・ポタリーの最初の歴史です。
1分講座、終わり・笑)
ちょっと書いただけでも、いかにすごい人たちと
いかにすごいことを成し遂げた人か、解るっしょ~。
ぜえぜえ。
こっからです! 以下、メインのオタク記事(爆)。
ただ、イギリスにおける(日用)陶器は当時、なかなか厳しい立ち位置だったため、
一度は繁栄するも、その後、結構苦労するんですね。
自身の三回の結婚等も複雑に事情が絡み合って、
息子(ディビット・リーチ・故人)は、別の場所(デボン)で
孫(ジョン・リーチ)と窯を開いて現在も続いているし(焼き締め作ってる!)、
一度は繁栄するも、その後、結構苦労するんですね。
自身の三回の結婚等も複雑に事情が絡み合って、
息子(ディビット・リーチ・故人)は、別の場所(デボン)で
孫(ジョン・リーチ)と窯を開いて現在も続いているし(焼き締め作ってる!)、
(同じく次男の子、フィリップ・リーチも陶芸家)
一番弟子だったというマイケル・カーデューの弟子
ジョンの窯(現在サマセットのマチェルニー工房)では、
日本人が伝えた登り窯(斜面を利用して器を薪で焼く、日本では激減した窯)
があります(ヨーロッパ最大とも言われる!)。
そこで焼かれる、日本でいえば備前に代表される
日本人が伝えた登り窯(斜面を利用して器を薪で焼く、日本では激減した窯)
があります(ヨーロッパ最大とも言われる!)。
そこで焼かれる、日本でいえば備前に代表される
焼き締めの器の窯変、というか、肌を、
「トースト・フィニッシュ」っていうんですね、イギリス陶芸用語では!!
「トースト・フィニッシュ」っていうんですね、イギリス陶芸用語では!!
で、一方、リーチと、亡き後継いだ三番目(!)の奥様とその弟子もそれぞれ亡き後、
肝心のリーチ・ポタリーは、一時「消滅か!?」という危機に陥ったのですが、
その後、紆余曲折で乗り越えて、直系ではなくなったものの、
彼の残したレシピと意志を継ぎ(その地の土でその地の風土にあった
「用の美」(柳宗悦が唱えた民藝運動の思想根幹)を追及する、
というポタリーの基本理念を守り、
今ではセント・アイビスにくる世界中の若い陶芸家を育て、
「トラスト」として、その役割はイギリス陶芸の
発展のみに留まらなくなりつつあります。
肝心のリーチ・ポタリーは、一時「消滅か!?」という危機に陥ったのですが、
その後、紆余曲折で乗り越えて、直系ではなくなったものの、
彼の残したレシピと意志を継ぎ(その地の土でその地の風土にあった
「用の美」(柳宗悦が唱えた民藝運動の思想根幹)を追及する、
というポタリーの基本理念を守り、
今ではセント・アイビスにくる世界中の若い陶芸家を育て、
「トラスト」として、その役割はイギリス陶芸の
発展のみに留まらなくなりつつあります。
この大皿(直径約30cm)も、復興リーチ・ポタリーの中核を成す、
「スタンダード・ウエア」ラインのもので、
作っているのは、工房の職人のもとで弟子や学生だったりですが、
今でもこの地の土と「彼の思想とレシピ(意匠含む)」で作られている、
というところがミソで、まさに「使える美」が生きていて、
何を入れても(素人が考えずに使っても)、そこそこに映えます(笑)。
(多用出来る、というのは食器のプライオリティー・スペック!
「スタンダード・ウエア」ラインのもので、
作っているのは、工房の職人のもとで弟子や学生だったりですが、
今でもこの地の土と「彼の思想とレシピ(意匠含む)」で作られている、
というところがミソで、まさに「使える美」が生きていて、
何を入れても(素人が考えずに使っても)、そこそこに映えます(笑)。
(多用出来る、というのは食器のプライオリティー・スペック!
・・・だと思いませんか?)
今は日本にいるので、画像は日本の家庭料理ばかり盛ってるの図ですが、
ロンドンでは洋な感じの料理ばかり盛っていました。
どっちでもいい雰囲気です。
もともと17~18世紀に実用雑器としての「陶器」(スリップ・ウエア)
というものがイギリスで作られていて、
それをリーチの審美眼で再興させたのですが、
(ちなみに上の器はスリップ・ウエアではありません)
面白いのが、それら古陶の実物とともに、技術を濱田庄司が日本に持ち帰り、
今の益子焼の新しい流れを作ったり(現代益子は彼なしではありえない)、
若い陶芸家たちが全国であとを引き継いでいる、ということです。
(ついでに、ドイツ発祥の塩を使う塩釉(塩を窯に投げ入れて
ガラス化させて釉薬代わりにする手法)も、濱田が試み、
現代ではそれにとって代わった、ソーダ釉を使う若い職人さんも
日本にいらっしゃいます。日英融合~♪)
(てか、最近つくづく思うのですが、同じ志を持つ(同志)、
そして友情って思いのほか、大切ですね・・・・)
英国発祥のスリップ・ウエア、というのは、一番下の土の上に、
泥(泥漿/化粧土)をどろりーんとかけ、それを利用して模様を作ったりして
釉薬をかけて焼いたもので、アイシングケーキみたいな模様があったり、
今見てもとってもかわいい素朴なもので、日本でも買うことが出来ます。
(今、「民陶」が若い人たちにキテるみたいです、日本。)
泥(泥漿/化粧土)をどろりーんとかけ、それを利用して模様を作ったりして
釉薬をかけて焼いたもので、アイシングケーキみたいな模様があったり、
今見てもとってもかわいい素朴なもので、日本でも買うことが出来ます。
(今、「民陶」が若い人たちにキテるみたいです、日本。)
リーチ・ポタリーの復興には、
柳壮悦と濱田庄司が館長を務めていた東京・目黒の日本民藝館も
尽力していたり、東日本大震災の時は、益子の濱田窯(塩釉窯)が全壊(TT)、
同時に人間国宝(彼)の作、欧州の古陶など超貴重な陶器の
柳壮悦と濱田庄司が館長を務めていた東京・目黒の日本民藝館も
尽力していたり、東日本大震災の時は、益子の濱田窯(塩釉窯)が全壊(TT)、
同時に人間国宝(彼)の作、欧州の古陶など超貴重な陶器の
約半数が壊れてしまったときにはセント・アイビス
(リーチ・ポタリーが有る地、益子と友好都市協定を結んでいる)
から再建基金が贈られたそうです。
から再建基金が贈られたそうです。
おお~、またまた日英親交~~(TT)
(この311の被害を私はやはり知らなかったので、ショック受けてしまいました。
きっと関係被害地で他にもたくさん、割れちゃったんだろうな、とも思い、
地震の国で器を保管することのむずかしさを改めて感じました。)
(((でも、まあ、器は割れるものよね・・・。)))
きっと関係被害地で他にもたくさん、割れちゃったんだろうな、とも思い、
地震の国で器を保管することのむずかしさを改めて感じました。)
(((でも、まあ、器は割れるものよね・・・。)))
↑カブのスープ
リーチ意匠でも、言うならば窯ものであり作家ものではないため、
高いものではないけど(・・・安くもないけどTT)、
実際に手で持ってみて、一番気に入り、かつ、なじむ気がしたものを・・・。
(・・船便の中からまっさきに見つけて、無傷を確認して、ホ~~ッ
って、これだけじゃないけど ~~;)
実際に手で持ってみて、一番気に入り、かつ、なじむ気がしたものを・・・。
(・・船便の中からまっさきに見つけて、無傷を確認して、ホ~~ッ
って、これだけじゃないけど ~~;)
*器は出来ることなら、実物を見て買わないと、ダメ・・・。
このお皿の焼き方は、ソーダ・ファイアリング、と言って
窯の中にソーダ(重曹)を水で溶いたものをブシュ―――――ッと吹き付けて
釉薬代わりにするものです(釉薬をかけなくても表面がガラス質化する)。
それまで欧州で主流だった「塩釉」が焼成中に有害物質を出す、
ということで取って代わった方法なので、特別なもの、
というわけではありませんが、独特の「明るい緋色」を表現します。
(どう見ても黄色だけど~~;)
窯の中にソーダ(重曹)を水で溶いたものをブシュ―――――ッと吹き付けて
釉薬代わりにするものです(釉薬をかけなくても表面がガラス質化する)。
それまで欧州で主流だった「塩釉」が焼成中に有害物質を出す、
ということで取って代わった方法なので、特別なもの、
というわけではありませんが、独特の「明るい緋色」を表現します。
(どう見ても黄色だけど~~;)
(リーチ・ポタリーのこのラインは窯入れの前に化粧土を施し、
ガス窯でもソーダ釉が独特の表情を出しています。)
ガス窯でもソーダ釉が独特の表情を出しています。)
なお、ロンドンのV&Aミュージアムでは、
バーナード・リーチ本人の作がいつでも(たしかいつでも)見られます。
とにかく造形が美しく、自慢じゃありませんが(いや、自慢か?)、
初めてみたときにたくさん飾られているツボたちの中から、
すぐに言い当てちゃいました!!
(もっとも、造形のみならず、もともと益子焼を知っていたので、
釉の雰囲気が後の益子と似ていたからかも。
バーナード・リーチ本人の作がいつでも(たしかいつでも)見られます。
とにかく造形が美しく、自慢じゃありませんが(いや、自慢か?)、
初めてみたときにたくさん飾られているツボたちの中から、
すぐに言い当てちゃいました!!
(もっとも、造形のみならず、もともと益子焼を知っていたので、
釉の雰囲気が後の益子と似ていたからかも。
「ええ~? ウソでしょー?(疑)」と思われたロンドン人の貴女、
ホントになんとなく解ると思いますので、まだご覧になっていなければ
ぜひぜひおみ足をお運びくださいませ!!(興味あればだけど・笑)
(なんせロンドン中の美術館、博物館、太っ腹のタダですから!
見なきゃ、ソンです。)
見なきゃ、ソンです。)
それと、窯ものじゃなくジョン・リーチ本人の作品、
そして確かそのお父ちゃん(バーナード長男)
故・ディヴィット・リーチ本人の作も
アンティーク・フェアで扱っている方がいます。
(お父ちゃんのはものすごく高いけど、ジョンのは手が届く!かも!
でもどちらもリーズナブル!!)
もうひとつ、バーナード・リーチは何度も何度も、
ふるさと・日本へ来て(帰って)いますが、
夏の間は長野県の松本市を気に入って滞在していたこともあり、
ウメもも超憧れの「松本民芸家具」に
なんとウインザー・チェアーを指導しています。
いつか、松本の家で、
イギリスから持ち帰ったチェスターフィールド・ソファの横に、
このチェアーを置けるかな?(ささやかだけど、高い夢・TT)(笑)
*********************
さて、次の目標は(誰も聞いてませんよ~)、
孫・ジョン・リーチの登り窯の焼き締めを直接見に行き、
そしていずれ自分の持っている数少ない
日本の薪窯の焼き締めの器と一緒にならべて使うことです(爆)。
そのために、料理の精進も頑張るぞ~~(笑)。
ポチ、ウインザーチェアーとともに、よろしくっっ!(←ぜんぶポチ頼み・笑)
てか、その前に久々に益子に行ってこようっと(笑)。
益子、本当に昨今オサレなので、益子レポもこうご期待ね!
本日もながながと失礼致しました~(笑)
(いつも読んで下さっている方!
この場を借りて、本当にありがとうございます・涙)
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